「この大会は自分にとってなんだったのか?」佐藤 純子

私が100キロに挑戦した理由はだいたい百個くらいあって
ひとつめはコロナ禍じゃどうも息がつまりそうになった
ふたつめは締切日の月が夜の散歩に私を誘っていたこと
みっつめは本を書いてみてもいいかな
なんて思っていたこと                   
(くるり『ハイウェイ』改)

通っている美容室がPAPASSだということもあり(PAPASSと100キロの関係は割愛)、私とこの大会との付き合い(?)は長い。特に、私を担当してくださっていた南さんが、執拗に出場を断っていたつもりの私に、自信たっぷりにこう言ったのを今、急に思い出している。
「話してたらわかるんだけど、たぶん純子ちゃんは、いつか出ることになるよ」

あれから約15年が経過し、21時間11分で100キロを歩いた2日後、この大会は自分にとってなんだったのか?を考えている。

実は前年にも自分としては無謀な目標を達成し、教師と心理師というダブルライセンスの人生をスタートさせていた。教師モードで「コツコツやれば必ず目標に近づく。大切なのは強い気持ち」ということを体現したかったというよりは、心理師モードで「100キロ歩くなんて自傷行為だ。そうだ、自傷行為を研究テーマとして、100キロ歩いてみるのもいいな」と考えた。だって、「足の爪が全部なくなっても、あきらめましょう。あとで綺麗に生えてきますから」なんて聞いた時点で、自傷行為以外の何物にも思えない。(実際には爪なんてどうでもいいほど他の全部が痛い)

周囲の反応は様々だった。挑戦することをほめられるたび、「いや、そういうんじゃないんだよなぁ、どうかほめないで~」と思った。応援されるたび、「しなくてもいい無謀なことをしているだけなのに?」と思った。完歩の経験者たちは「好奇心はアクセル、不安はブレーキ。楽しもう」「ずっと悩んでいたことの答えが出るよ」と話してくれた。

こんなに臆病な自分には、病院で手術を受けた時以来ぶりに会った。
昨年の完歩者に、「今年はチームで完歩する!って目標をたててるんだけど、一緒に出ませんか?」と誘われ、24時間経たずに申し込みを済ませたときの自分と、1ヶ月前に不安で睡眠がおかしくなっていた自分とが同一人物だとは思えない。誘ってくれた方の心中を察すると、「えっ?あんなに潔く申し込んだのに、こんなに怖がるって何?」という感じだろう。
苦しい苦しいって、何がどう苦しいんだろう?極限の状態になったときに自分がどうなるんだろう?を知りたい。これは確かに好奇心だった。それは私を前向きに、ひた向きに動かした。でも、私の中には、練習をすればするほど大きくなる、無視のできない不安もあって、これは周りに「真面目すぎる」と滑稽に映るほどストイックに自分を追い込み、夢に出てくるほどだった。
心理師として書くと、100%のポジティブも100%のネガティブも危ういのだから、この好奇心と不安の配合は、まぁまぁ良かったんじゃないか。完歩できた今だから言えることだ。

ただ、本番前にいくつかのことは純度100%で心に決まっていた。
「素直に応援されてみる」「足を引きずってでもゴールする。その代わり、チームのペースに合わせるのが無理だと思ったら、先に行ってくださいと、ちゃんと言う」。また、密かな裏テーマとして、「何度も完歩している他のメンバーが、今回が一番楽しく歩けたと思ってくれるような参加の仕方をすること」も。
「足を引きずってでもゴールする」というのは、直前に友人から、「純ちゃんはがんばってるけど、ああいう感じじゃ達成できないだろうなぁって思ってる人が多いと思うよ」と、今思えば私の闘志に火をつけるために、わざと言ったのでは?ということを聞いて、心に決まった。

これまでに行ったたくさんの異国のどこよりも遠くに行く気分でスタートした。すぐにどこかが痛んでいたし、なんなら歩く前からどこかが痛かったが、70キロまでは鎮痛剤の効果とは別の何かで、時々、不思議に回復する時間があった。(おもしろい)
備前の山越えが一番しんどくて、やはり山登りをもっとやればよかったなんて真面目に考えていた矢先、和気から磐梨までの川沿いに地獄が待っていた。意識朦朧。あろうことか、同じように体が痛んでいるはずの他のメンバーは精神的に自分より何周りも元気で、眠気をさますために「しりとりを始めよう!」と陽気だ。(いい思い出。途中で脱落してすみません)よほど辛い表情で磐梨に着いたのだろう。サポーターをしていたPAPASSメンバーの中でも、スタート時にも応援に駆けつけてくれ、精神的に支えとなってくれていた溝川ちゃんが、私を見て涙を浮かべていた。

がんばらなきゃ。あと25キロくらいじゃないか。
思えば、その少し前に、あと33キロだよ、と他メンバーが教えてくれ、私を含む初出場の2人が「えっ!あと33キロ?」と声を合わせたとき、「ん?2人とも、それ聞いてどう思ったん?」「あと少しだなと思いました」と、2人して言ったじゃないか。そのときから、私の中では「ここまで来たからリタイアしなきゃいけないことにはならないだろう」という思いがずっとあった。でも後から考えると、残り1キロになっても、しんどさ記録は更新され、最後まで過酷さのレベルは上がり続けたのだから、残り33キロなんていう早い段階で「ここまで来たんだからがんばろう」とお気楽に思えたのは、初挑戦者である無知さゆえの強みだった。

心に決めていたのに、とてつもなくしんどくても、隣で歩いてくれる人に「先に行ってください」と言えなかったし、むしろ「置いていかないで」と、すがるような気持ちだった。しんどいときに、しんどいと言うのが苦手だと思っていたが、口に出た。そのせいで他メンバーの記録は狙えなくなったが、私は最後まで歩ききることができた。
ひとりでマイペースに歩く方が楽だとも聞く。実は私はひとりでアフリカまで行ってしまうような人間で、「歩いてみたら、ひとりがいいタイプかどうか、わかりますよ」と経験者から聞いたときに、「わたしは一人の方がいいタイプだろうなぁ」とぼんやり思っていた。でも今回、確信した。私は、ひとりでは、歩けない。ひとりでできること、行ける範囲は限られている。少なくとも、朝10時にスタートしてから21時間ほどでゴールして、翌朝の9時にはシャワーを浴びてスヤスヤ寝ているなんてことは、なかっただろう。

蓋を開けてみれば、何度も完歩した人が言うように、この大会は歩く練習云々ではなかった。
私は心の鍛錬が足らず、他メンバーのように笑ってゴールすることはできなかったばかりか、疲れすぎて涙も出ず、終わったばかりのときは「無」だった。帰りの車の中で、じわじわと「もっと楽しく歩けたはずなのでは?」「こんなにしんどいってあるか?」と、不甲斐なさから涙が出た。「悩んでいたことの答え?疲れすぎて考えられないよ!」と。

それから2日、消滅していきつつある筋肉痛とは逆に、強い決意のようなものがムクムクと私の中で育っているのを感じる。
自分からデッドボールを当たりにいったような、それはやはり、自傷行為だった。でもやっぱり、自傷行為は死にたくてするのではない。それが本当の意味で実感できた。
自分から剛速球に当たりにいってまでも出たかった、私にとっての「一塁ベース」が、見えてきつつある今である。

とてつもない長文かつ私的な内容になってしまい、これから初挑戦しようという人の背中を押すものになったとは到底思えないが、この文字数分以上の感謝を、誘ってくださった方、夜道を照らしてくださった方、応援してくださった皆様に捧げたい。特に、要所要所にPAPASSのスタッフさんがいてくださったのが大変な力となった。これからもよろしくお願いします!ありがとうございました。

佐藤 純子

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